童歌「かごめかごめ」に秘められた暗号(前編)
新たな発見は続きます!笑
以前、老師が「日本神話の『古事記』に書かれた神さまは、すべてカラダの中にある」と、さりげなくスゴいことを言われたことを思い出し、次のような関連性に氣づいたのです。
三種の神器の「鏡」は「大宇宙の中心にある霊的太陽(セントラルサン)」を表し、「勾玉」は「大宇宙のスピン力」を表し、「草薙剣」は「大宇宙の中心軸」を表していたことに…(そういえば、草薙剣はヤマタノオロチのしっぽから出たのです。やっぱり、しっぽがキーワードなんです 笑)。
なるほど、「楽禅ヨガ」とは、三種の神器を祀る型だったわけです(「祀り」とは「真釣り」で、人体の中心と宇宙の中心を、真に釣り合わせることです)。
そして、淡路島にある先山千光寺は「大宇宙の中心にある霊的太陽(鏡)」に、飛騨高山にある袈裟山千光寺は「大宇宙のスピン力(勾玉)」に、大阪にある犬鳴山七滝瀧寺の倶利伽羅龍王は「大宇宙の中心軸(草薙剣)」に対応するパワースポットだったと…(勾玉は陰陽魚とも呼ばれますが、両面宿儺も陰陽両面の顔の持ち主ですね)。
すると、「飛騨高山の袈裟山千光寺と淡路島の先山千光寺を直線で結べ」というインスピレーションが…(笑)。
さっそく、日本地図を取り出して直線を引いてみると…
な、なんと…
その直線は我が家のある京都市中心部をズドンと貫いているではないですか!
三種の神器に対応するパワースポットが、我が家で一直線に結ばれたってことは、いつの間にか、我が家が倶利伽羅龍王さんを祀る分社になってたってこと!?笑
なるほど、犬鳴山七宝瀧寺で、倶利伽羅龍王が我が身に宿ったのは、このためでもあったのか…。
まさに、日本龍体に「レイライン」ならぬ「三種の神器ライン」の発動です!
三種の神器が揃ったとき、霊の本のエネルギーは起動します。そのとき、霊の本、すなわち、聖なる中心は定まる(出現する)から… 。
それはまた、私たち一人一人の悟りゲートを覚醒させ、嬉し楽しのミロクの世を実現させる、超パワフルな後押しとなることでしょう。
その日が、奇しくも、令和5年6月7日、すなわち、ミロクの日だったのです。
さて、新たな発見は止まることを知りません(笑)。
なんと、童歌「かごめかごめ」に暗示された鶴と亀の謎が、解けてしまったのです。 童歌「かごめかごめ」の歌詞は、次のような意味深なものです。
かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が統べた
後ろの正面だあれ?
まず、「籠の中の鳥」とは何を意味しているのでしょうか?
私たちの多くは、アタマの中に自分が閉じ込められているように感じています。
それを、籠の中の鳥だと暗示しているのです。
でも、その籠は隙間だらけ…。
本当はイノチといつもツーツーにつながっているのに、閉じ込められているように私たちが錯覚していることも、暗示していたわけです。
仙道家の島田明徳さんの「病の意味(地湧社発行)」には、イノチについて、次のような文章が書かれています(心不全になったおかげで出会えた本です 笑)。以下、該当部分を引用します。
心臓は誰が動かしているのでしょう? 普段こんなことは考えたこともないと思いますが、ここで真剣に考えてみてください。心臓を動かしているのは、自分自身でしょうか? それとも自分以外の「誰か」が動かしているのでしょうか? もちろん、自分以外の「誰か」が自分の心臓を動かしているなどということはありません。けれども、自分が自分の意志で心臓を動かしているわけでもありません。自分のはずだけれど、自分という自覚はない『何か』が心臓を動かしているのです。
(中略)
自分の身体のことを、私達は自分の身体だと思っていますが、この自分の身体のことを自分自身がほとんどわかっていないのも事実だと思います。自分で動かせる部分、つまり、自分の意志が及ぶ部分に関しては、自分の身体と言うこともできるでしょうが、幸か不幸か、私達の身体のほとんどは自分の意志で動かすことができません。身体のほとんどの部分が自分の意志では動かせないにもかかわらず、自分の身体と思っているのは、何か変な感じがしませんか。「自分の身体」と言うには、あまりにも身体をコントロールできなさすぎるのです。自分の心臓のはずなのに、自分の意志で心臓を止めたり動かしたりできませんし、内臓の働きも血液の流れも、自分の意志ではどうすることもできません。
(引用はここまで)
このような、自分のカラダとは言えないようなカラダ自体のもつ働き、この働きが私たちを誕生させ、維持し、生かしている(存在させている)と、島田明徳さんは言います。
その「働き」が、「イノチ」であり「神」なんです。
私たちは、自分という意識が芽生える前も、丸ごと全部、イノチに支えられて生きてきました。今の僕も、そのときの僕とまったく変わらないのに、いつの間にか、自分一人だけの力で生きているように、勘違いしちゃってるわけです(汗)。
だからこそ、もう一度、私たちを根っこで支えてくれているイノチとつながり、個の意識(人意識)と全体意識(神意識)が融合した新たな視点(神人合一意識)を獲得することが、全人類に課せられた使命でもあるのでしょう。
つまり、私たちが全体意識から離れたのは、退化でなく進化だった…。
エデンの園からの追放は、原罪ではなかったのです!
童歌「かごめかごめ」に秘められた暗号(後編)
さて、「鶴と亀が統べった」の説明に入りたいと思います。
まずは、次の画像をご覧ください!

亀さんがいたでしょう!笑
そうなんです。
実は、仙骨が亀で(尾骨は亀のしっぽ)、脊髄は鶴を暗示しているのです。
「鶴と亀が統べる」=「脊髄と仙骨(&尾骨)がひとつにつながる」ことによって、私たちは籠から脱け出して、再び、私たちの本体であるイノチの世界(=エデンの園)に帰還できるってことです(その時、後ろの正面、すなわち、自分の本体であるイノチの存在にも氣づくのでしょう。なるほど、両面宿儺の後ろの正面も、このことを暗示していたのです)。
そして、脊髄と仙骨(&尾骨)をつなげるカギは、命門(へその真裏にあるツボ)にあります。
命門とは、その名のとおり、イノチの世界につながる門だったわけです(年をとって腰が曲がると老け込んでしまうのは、そこから氣が漏れてしまうからです)。
「楽禅ヨガ」の心得(第四条)に書いた「命門(ヘソの真裏にあるツボ)が食い込むような感覚」とは、「尾呂中正」によって生じる感覚です。「尾呂中正」は氣功用語で、「尾呂」とは尾骨のことです。「中正」の「中」という字は「◯」に「|」で、しっぽ(仙骨と尾骨)に包まれるように存在するドラゴンボールと中心軸を表しています。「中正」の「正」という字は、「一」に「止」まると書きますが、太極マークが球体になったドラゴンボールをイメージしてみてください。その球体のど真ん中を中心軸が貫いています(球体の中心が「悟りゲート」であり、「一」であり、「太極」なんです。太極拳はその一点から生じるエネルギーを相手に伝えているのです)。そして、中心軸の周りを、陰陽のエネルギー(太極マークの陰陽魚)、すなわち、大宇宙のスピン力が渦巻いているわけです。その「一」に「止」まるという意味が「中正」ですね。
ここで重要なことは、ドラゴンボールの上端が、命門とヘソを結ぶラインだということです。
「上虚下実」という氣功用語もありますが、これは、上半身の余分な力みや緊張が抜けて、丹田に象徴される下半身に力が充実している状態を意味します。スマホやパソコンの普及により、目やアタマを酷使することが多い私たちは、特に、氣が上がりやすい傾向にあります(よく使う部位に氣は流れる性質があるためです)。氣が上がると、地に足がついていない状態となり、ココロも不安定になります。その不安定なココロが、不安や恐れや執着の原因ともなっているのです(「ムカつく」という言葉や、「カッとアタマに血が上る」という言葉も、本来、丹田に納まっているべき氣が、胸やアタマにまで上がってしまった状態を表す言葉でしょう)。
だから、命門はいつもグッと食い込ませて、しっかり栓を閉めておかなくてはなりません(命門とヘソを結ぶラインから上に氣を上がらせないためです)。
そうすれば、丹田にエネルギーがどんどん集まるようになります。 やがて、その凝結したエネルギーはドラゴンボールとなり、その中心に「悟りゲート」は出現するってことなのです。
時空を超える「悟りゲート」
さて、「悟りゲート」について、もっと突きつめて考えてみたいと思います。
私たちは中心を点でイメージしますが、その点は面積0であるはずでしょう。
たとえ0.01ミクロンの点であっても、それを顕微鏡で拡大すれば巨大な広がりとなり、中心とは言えなくなるからです。
ちょっと、円をイメージしてみてください。
そして、その円の内側に、マトリョーシカのように、より小さな円をどんどん描いてみてください。
すると、点みたいに小さくなった円の中にも、無限に小さい円を描くことが可能だと分かるでしょう。
じゃあ、どこまでいったら、もうこれ以上、小さな円を描けなくなるのでしょうか?
その時こそ、面積ゼロの点、すなわち、中心にたどり着いたことになるはずだからです。
それは…
円周という内側と外側を隔てる境界線が無くなったときです。
つまり、円周という境界線が無くなったとき、それ以上、小さな円も無くなるってことなんです。
それが面積ゼロの聖なる中心です。
今度は、マトリョーシカの逆バージョンで、どんどん大きな円を外側に描いてみてください。
どんなに大きくしても、円周という境界線によって、内側と外側に分断されている限り、その外側に無限に大きな円を描くことができるでしょう。
じゃあ、どこまでいったら、もうそれ以上大きな円を描けなくなるのでしょうか?
もうお分かりですね!笑
それも、円周という内側と外側を隔てる境界線が無くなったときなんです。
つまり、円周という境界線が無くなったとき、それ以上、大きな円も無くなってしまう…。
それは…
無限です!
ここで、不思議な一致に氣づくことでしょう。
境界線が無くなった時が「ゼロ」であり、かつ、「無限」ってことは、「ゼロ」=「無限」ってことになるじゃないですか!
ゼロは何も無いってことじゃなかったんです。
ゼロは無限でもあった…。
そのゼロから、無限の智恵や能力、ヒト、モノ、カネも、現れてくるのです。
いつでも無限を引き出せる無敵のゼロ
つまり、面積ゼロの聖なる中心は、物質次元を超えているのです。
だから、カラダの中に宇宙があるってことにもなるんですね(補足参照のこと)。
豊臣秀吉のように裸一貫から大成功した人に、私たちがワクワクしちゃう理由も、そこにあるのかもしれません(その証拠に、天下人になってからの秀吉に、トキメキを感じる人は少ないのではないでしょうか… 笑)。
それは、自分にも秀吉と同じ無限が備わっているから…
きっと自分の中の無限(神)が、その全智全能性を発揮したくて、ウズいているのです(笑)。
~補足~
中心軸によって地球の中心とつながることは氣功のスタート地点で(ヨガや坐禅も氣功です)。「悟りゲート」を開いて地球の中心そのものとなることが、氣功のゴールです。なぜかっていうと、中心軸でつながるのは、地球の中心までとても遠いのです(太陽の中心はもっと遠く、宇宙の中心は果てしなく遠いです 笑)。
でも、「悟りゲート」を体得すれば、「人体の中心」即「地球の中心」即「太陽の中心」即「宇宙の中心」となる…。そのとき、宇宙の中心にある霊的太陽(セントラルサン)と、一体になってるってことなんです。これが、神道における「祓ひ」と言われる状態です。「祓ひ」=「腹日」であり、その名の通り、腹に日(霊的太陽)が宿るのです。ちなみに、「禊(みそぎ)」は「身削ぎ」で、「肉体」=「自分」という錯覚を、削ぎ落とすことです。
その時、ピン!と来ました。
ゼロって無限を入れる器ではないかと…。
でも、普通の器じゃありません。
童歌「かごめかごめ」の籠は、この比喩でもあったわけですね。
籠もすき間だらけの底抜けの器ですから…。
ということは、本来、私たちは底抜けの器で、イノチとツーツーにつながっていて、いつでも無限を引き出せる無敵のゼロってことなんです(笑)。
それなのに、無敵のゼロだってことを忘れちゃってるから、無限の智恵と能力と運を引き出せないでいたなんて…。まさに、宝の持ち腐れだったわけです。
とは言うものの、いつも自分が無敵のゼロであり続けるための、コツみたいなものは存在するのでしょうか?
この世はまったく相対的な世界ですが、善悪、美醜、貧富の区別という境界線があること自体が、私たちを困らせることはないでしょう。
でも、私たちがその一方を好み、もう一方を嫌ってしまった時、そこに悩みや葛藤が生まれ、私たちを困らせる存在となってしまうんです。
つまり、私たちが好き嫌いの感情を持った時、取捨選択する自分がムクムクと誕生して(=自分と自分以外の境界線が生じて)、私たちはゼロじゃなくなってしまうってことです。
そういえば、僕のひいおばちゃんは何を聞いても「なまんだぶ、なまんだぶ、ありがたい、ありがたい」が口癖でした。良い話を聞いても、悪い話を聞いても、どんな話を聞いても、無条件にそうだったのです。たとえ僕が転んで足を擦りむいた時でも「それは痛かったなぁ。なまんだぶ、なまんだぶ、ありがたい、ありがたい」でした(笑)。
その頃の僕は「何がありがたいんじゃ。全然ありがとうないわい」と思っていましたが、なぜか、ひいおばちゃんの「なまんだぶ、なまんだぶ、ありがたい、ありがたい」を聞くと、ものすごく安心感に包まれたことを覚えてます。
でも、今ならその理由も分かります。
ひいおばちゃんは、どんな理不尽なことが起こっても、愚痴や不平や不満を言いませんでした。
当たり前のように、どんな現実も、淡々と、かつ、感謝で受け入れていたんです。
果たして、これほどの強さがあるでしょうか…。

無条件の愛と許し
今にして思えば、ひいおばちゃんは本当にありがたかったんだと思います。
というのも、前述の栄宗寺住職のブログに、次のような言葉があるからです。以下、該当部分を引用します。
私たちの生は、固定的な「意味」を持ちません。
だから「間違いなく人生には意味がある」「人生に意味なんてない」
そのどちらも、私たちの生は無条件に受け入れます。
私たちの生は、固定的な「意味」を持たないからこそ
あらゆる意味を無条件に受け入れます。
例え「無意味」という意味であったとしても、です。
私たちの生は、何も拒絶しません。
それは「愛の機能」としか言いようがありません。
私たちの生は、生きることも、死ぬことも
苦しむことも、悲しむことも、楽しむことも、喜ぶことも
差別することなく、平等に受け入れます。
あらゆる感情が、私たちの中に生まれることが許されています。
この生において、あらゆる感情を感じることが許されています。
それは愛の機能です。
私たちの生は、愛の機能そのものです。
その愛は、無条件過ぎて、私たちに無関心なのではないかと勘違いしてしまうほどです。
しかし、そんな勘違いさえ許される程に、私たちの生は一切を無条件に許している
愛の機能そのものなのです。
(http://kkr117.blog104.fc2.com/blog-entry-477.htmlより引用はここまで)
どこの映画館にもスクリーンがありますね。
スクリーンがなければ映画は上映できません。
そして、スクリーン上にはありとあらゆる映画が上映されています。
恋愛映画・アクション映画・ホラー映画・コメディ映画・シリアス映画・etc
スクリーンはえり好みなしに、それらの映画を映し出します。
スクリーンは、何であれ様々な映像が自分の上に映し出されることを許しています。
そして、爆破シーンを映しても、殺戮シーンを映しても、そのことによってスクリーンが
傷ついたり・破れたり・汚れたりすることは決してありません。
映像が終われば、スクリーンはまっさらきれいなままです。
スクリーンには「あの映像は映していいけど、この映像は映しちゃダメ」
などという区別・差別がありません。
あらゆる映像が映ることを、無条件に許している。
それがスクリーンの機能です。
(中略)
あなたの上に映し出されるさまざまな感情、さまざまな思い。
それらはすべて、映し出されることが許されて映しだされているものばかりです。
そして、スクリーンであるあなたは、映し出される感情や思いに傷つけられることもなく、汚されることもありません。あなたはただ、それらの感情や思いが自分自身の「今というスクリーン」に映し出されることを、許してさえおけばいいのです。
「おかしい、矛盾している」 という思いが映し出されることを、映しだされるままに許してください。「どうせ何も変わらない」 という思いが映し出されることを、映し出されるままに許してください。「わかったような、わからないような」 という思いが映し出されることを、映し出されるままに許してください。「よし、許そう」 という思いが映し出されることを、映し出されるままに許してください。どんな思いでも構いません。
出てきた思いが出てきたままに映し出されることを、許してください。
いまのあなたが、そのまま 「いま、ここ」 というスクリーンであり、ホワイトボードです。いまのあなたが、そのまま 「許し」 そのものなのです。
(http://kkr117.blog104.fc2.com/blog-entry-62.htmlより引用はここまで)
いつもゼロだった僕のひいおばあちゃんも、この無条件の愛と許しのエネルギーに、満たされ続けていたんだと思います。その愛と許しのエネルギーに包まれて、何とも言えぬ安らぎと癒しを、僕は感じていたのでしょう。
ちなみに、日本人のDNAの中には、この「なまんだぶ、なまんだぶ、ありがたい、ありがたい」が刻み込まれていると思ってます。僕自身、絶体絶命のピンチの時、思わず「なまんだぶ、なまんだぶ」という言葉が口から出てしまい、そんな自分に驚いたことがあります(笑)。先祖を含め、数えきれないほど多くの人たちが、この言霊に救われ、安らぎと癒しと奇跡を体験してきたのです(補足参照のこと)。この言霊を唱えると、そんな奇跡の霊的空間と共鳴するから、絶体絶命のピンチのときも助かるわけですね(以前、「ありがとうブーム」がありましたが、それもこの霊的空間からのコーリングだったのでしょう)。
~補足~ 実は、神さまも仏さまも、あなたの中にいらっしゃるのです。ワンネスなのですから、神さまや仏さまは、あなたなのです。あなたの内面世界が具現化された世界(=領域展開された世界)が現実ですから、内も外も同じってことです。そして、神さまや仏さまを信仰することで、不安や恐れがなくなったカラダに「悟りゲート」は出現するのです。

常々、僕は思うんですが…(笑)
さて、人間はゼロから生まれてきて、ゼロになって死んでいきます。
ということは、私たちはゼロになるために生まれてきたと言っても過言ではない…。
いや、ずっとゼロだったのかもしれないんです(汗)。
常々、僕は思うんですが…(「ミステリと言う勿れ」の久能整くん風で 笑)
結局、こうして何十年も生きてきたけど、自分というのは何も変わらないもんだなぁ…。
今の僕は、しみじみとそう思うことがよくあります。
いったい、僕は自分の何が変わらないと感じているのでしょうか…?
子どもの頃の僕は、女の子みたいとよく言われていたのに、今や、ヒゲを生やしたまったくの別人です(笑)。
知識や経験が増すにつれ、あるいは、生活環境や人間関係の変化に伴い、僕の性格もずいぶん変化してきたように思います。
それなのに、自分の何がちっとも変わらないと感じているのか…?
私たちが赤ちゃんだった頃、つまり、言葉を覚える以前の私たちに、自分という意識はありませんでした(なんと、言葉無しに自分という意識は存在し得ないってことなのです。その証拠に、言葉が無いとき、いとも簡単に自我は消えてしまいます)。
でも、自我なんか無くても、私たちはちゃんと生きていたのです。
ということは…
自我が芽生える以前から存在していた自分(=後ろの正面)を、僕はちっとも変わらないと感じているのではないでしょうか…。
その自分(魂の自分と言ってもいいかもしれません)は、無色透明だからこそ、どんな自我の色にも100%染まることができます。だから、僕のカラダに入ったら、僕に100%なり切れるし、Aさんのカラダに入ったら、Aさんに100%なり切れるのだと思います。
そう考えると、以前、男の子と女の子の魂が入れ替わってしまう「君の名は」というアニメ映画が大ヒットしましたが、そもそも、入れ替わったことに本人たちは氣づかないんじゃないかと思います(笑)。
僕が「こうして何十年も生きてきたけど、自分というのは何も変わらないもんだなぁ…」と感じてしまうのは、自我の奥に、無色透明のままの自分を感じていたから…。
ということは、成長や進歩しているかのように見える自分は、幻想ってことになってしまいます(汗)。
だって、僕の本質はずっと無色透明のままなのですから…。
成長神話の呪縛から解放されることは、私たちをものすごく楽な氣持ちにさせてくれますが、もし、私たちに成長や進歩がないと言うなら、いったい私たちは何のために生きているのでしょうか?
よくよく考えてみると…
私たちは、自分で行為し、自分が思考して生きていると思っています。
しかし、人生全般を見渡してください。
経験はすべて与えられ、思考もすべてさせられているのではないでしょうか…。
出来事はすべて、それが起きてから認識します。
まったくの受け身なのです。
思考も同じです。
思いが出てから、考えが出てから、その後で、それが自分の思いであるとか、自分の考えであると、認識しているのです。
アタマでは「こんなダメ男とつきあっていたら幸せになれない」と分かっているのに、自分の感情も行動もどうすることもできず、ダラダラとつきあってしまう。
そもそも、どんな思考が湧き出てくるのかさえ、自分ではコントロールできない(瞑想経験のある方なら誰でも共感されることでしょう)。
もちろん、一秒先の未来も分からない。
まさに、自分は「まな板の上の鯉」状態で、自分の人生なのに何の手出しもできないってことなのです…。
パラドックスな「無条件降伏」=「無条件幸福」の開運法則
慶応義塾大学の前野隆司教授が提唱する「受動意識仮説」という、人間の意識と無意識に関する学説があります。すべての意志決定は意識する以前、つまり、無意識下でおこなわれていて、意識は受動的に過去になされた意志決定を、合理的なものとしてエピソード記憶する役割しか持っていないのではないか…という仮説です。
それを裏付ける、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の生理学者、ベンジャミン・リベットによる実験もあります。
それによると、私たちが様々な物事を「自分が〇〇する」と、自由意志によって決めていると実感する、その0.35秒くらい前に、無意識的な脳の神経活動が、あらかじめ意志決定を終えていたと言うのです。
なんと、自由意志だと意識されることのほとんどは、脳の無意識的な活動が先行して決めていたことだった…。
だから、どんなにお金をためこんでも、どんなに理想の伴侶を得ても、どんなに健康であっても、いつまでたっても安心できなかったのです。
それらは、私たちがコントロールできるようなものではなく、たまたま、そんなプログラムに過ぎなかっただけ…。
だからこそ、「何があっても大丈夫!」という究極の安心を、私たちは求めてしまうのだと思います。
心底そう思える愛や癒しを得たいだけなんだとも思います。
とは言っても、何から何までプログラム通りの私たちに、そんな究極の安心を手に入れることは可能なのでしょうか…?
まったく逆説的なことですが、実は…
どんなイマココにも、無条件降伏さえできたなら、そこに、究極の安心があるんです。
どういうことかと言いますと…
願い事が叶ったとき、私たちは何を見ても聞いても、ありがたく、嬉しく、楽しく思われて、まるで人生が薔薇色に輝いているかのように感じるでしょう。
果たして、私たちがそのような幸福感に包まれるのは、願い事が叶ったからでしょうか?
そうではなく、たまたま願い事が叶ったことによって、私たちがありのままのイマココを受け入れることができたからではないでしょうか…。
私たちがイマココへの一切の抵抗を放棄したことこそ、その幸福感の本当の原因ではないでしょうか…。
そのとき、自分は「ゼロ(=無色透明)」になっていて、「無限(=無条件の愛)」に包まれているから…。
どんなイマココも受け入れるとき、私たちは無条件の愛そのものなんだと思います(「どんなイマココも受け入れること」=「無条件に許すこと」です。そして、「無条件の許し」と「無条件の愛」は、コインの裏表の関係なのです)。
その愛に癒されるとき、そこに、私たちが求めていた究極の安心はあった…。
まさに、「無条件降伏」=「無条件幸福」だったのです!
そもそも、一秒先の未来も分からない自分に、人生の主導権があると勘違いしてしまったことに、あらゆる不安の根本原因があったわけです。
そんな頼りない自分が、家族を養わなければならないなんて、分不相応なことを思ったりするから、その責任の重さに押し潰されそうになって苦しんだりするのです。
「人生の主導権を明け渡しても大丈夫?」って、不安になるかもしれませんが、これまでも自分に人生の主導権は無かったんだから、その事実を素直に認めましょうってだけの話なのです(笑)。
それさえできたら、ゼロから無限が現れて、涌き出る思考が変わり、行動が変わり、環境が変わり、どんな出来事も大吉に転じていける…。
そんな無敵の無条件幸福人生が実現するわけですが、その前提条件となる「無条件降伏」が、簡単なようで、なかなか手ごわい問題なんです。
なぜかって言うと、自分をすっかり明け渡して、我が御主人さまであるイノチにお仕えしようにも、いったい何をすればいいのか分からない…。
肝心な御主人さまのメッセージが、ちっとも分からないからです(笑)。
そのため、宙ぶらりん状態になって、なかなか明け渡せないでいたのです。
ならば、話は簡単です。
私たちが御主人さまのメッセージを受け取れるようになればオッケーってこと!笑
とは言え、そんな裏技が存在するのでしょうか…?
このお話の続きは、↓「天岩戸『さとりゲート』をひらけ!(ヒカルランド発行)」をご覧ください!
「悟りゲート」こそ、次元を超えて「ゼロ」=「無限」=「One=All(ワンネス)」=「宇宙の中心(霊的太陽)」=「宇宙銀行」に通じる、唯一のゲートです。
そのゲートは、私たちのカラダの中に確固として存在します。
その意味でも、カラダ抜きに宇宙と一体になるなんてことは、ありえない…。
「悟りゲート」発見を機に、僕のカラダはすっかり変わってしまったみたいです。 これまで僕を動かしていたエネルギーが、まったく別次元のものに変わってしまったというか…(もしかしたら、そのエネルギーに対応した、まったく新しい心臓に入れ替わったのかもしれませんね 笑)。
そんな別次元のエネルギーを体得してみたい方、無限なる神の表現者としての人生を楽しんでみたい方は、ぜひ、↓の「神伝 悟りのヨガセミナー」&「白峰先生による 遠隔ボロン秘法の会」のページをご覧ください(あなたのカラダの中に眠る「悟りゲート」を、たちまち開いてしまう「タントラ」を伝授します)。
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