急性心不全から奇跡の回復

急性心不全から奇跡の回復

とにかく、両面宿儺の霊跡を訪れた日を境に、僕の体調はあり得ないスピードで、奇跡的な回復を遂げていったのです。

ほぼ寝たきりの入院生活だった僕のカラダは、アニメ「アンパンマン」に登場するホラーマンみたいに痩せ細ってしまいましたが(笑)、みるみるうちに、アニメ「終末のワルキューレ」に登場するアダムみたいに、力強く引き締まったカラダへと変貌…(ちなみに、このアニメではアダムが一番の推しキャラです!彼の生き様がすごくかっこいいので、ぜひご覧ください)。

おかげで、お酒を飲みたくてしょうがなくなるまで、元氣になりました(現在は、お酒も解禁です 笑)。

今の医学で治らないとされているのが、重度の非代償性肝硬変、拡張型心筋症(僕の心不全はこれです)とALS(筋萎縮性側索硬化症)ですが、そんな不治の病から、あっという間に回復してしまったのです。

その証拠に、両面宿儺の霊跡を訪れた2日後のNT-proBNP検査(慢性心不全リスク検査)では、退院後もずっと1500以上だった数値が(400以上が心不全と診断されるので、その約4倍の数値だったわけです 汗)、いきなり、380へと大激減していたのです(後日、その数値は48へと激減し、肥大してしまった心臓も、元通りになっていました。細胞分裂を起こさない心臓が回復するなんて、あり得ない奇跡にもかかわらず…。それも、ある霊跡を訪れた後のことだったのです。詳細は後述します。お楽しみに!笑)。

さらに、心臓のエコー検査では、いきなり心臓のポンプ機能まで、驚異の2倍アップという回復を遂げていたのです!

なぜ僕のカラダは一瞬でこんなにも変わってしまったのか?

なぜ温泉の質まで極上の湯へと一瞬で激変してしまったのか?

両面宿儺の霊跡での、あのウィーン、ウィーンという謎の音は何だったのか?

僕の疑問は深まるばかりでした。

すると、「大宇宙のスピン力」というインスピレーションが…。

なるほど、あのウィーン、ウィーンと山が鳴っていた音の正体はこれだったのか…。

地球は自転しながら太陽の周りを1年周期で公転し、その太陽も自転しながら、銀河系の中心の周りを2億年周期で公転しています。

このように、宇宙にあるあらゆるものはスピンしているわけです。

100円玉をスピンさせると、その遠心力と求心力によって、自ずから中心軸が形成されるように、地球も高速でスピンすることにより、地軸という中心軸が形成されます。合氣道や太極拳などの氣功武道は、自身のカラダを地球の引力線にピタリと一致させることで、この地軸という中心軸、ひいては、大宇宙の中心軸に自らを共鳴させること、そして、大宇宙の大いなるスピンの流れに乗ることが本当の目的なのです(すなわち、神武一道。肉体的に強くなることはオマケなんです)。

このことを、前述の立花大敬さんは、「宇宙の回転軸と一体化する」と表現し、坐禅の目的もそうだと「しあわせ通信第五集 楽々いのち」という本で述べています。以下、該当部分を引用します。

坐禅するやろ。そしたら、変ないい方やけど、宇宙の回転軸がわかるわけよ。どこを中心に回転しているかいうのが何となく感覚的に掴めてきて、その回転軸と自分の肉体の中心軸がピタッと一致した時に、すごい、何ていうの、いい感じ(笑)。いい感じになるわけよ。だから、宇宙の回転軸(中心軸)、それが神やで。その神と僕が一体化するっていう神人合一。それはキリスト教でもイスラム教でも言うし、全然変わらない話だと思う。だから方法論としてスーフィー(イスラム神秘主義の一派)みたいに体を回転させることによって宇宙の回転軸を発見するというやり方もあるやろ。坐禅は座ることによって回転軸を発見していく。キリスト教なんかの祈りの場合は、急に宇宙の回転軸とか言われてもわからんから、基本的にまず外におく

 けよ。神として人格化して。そして自分がここにおって、その神と対話して祈ることによって、命を一つにしていって、最終的にはピタッと軸を一緒にする。まず外に人格化するっていうのが心理学的におもしろいやり方だと思う。

(引用はここまで)

つまり、「大宇宙のスピン力」とは「大宇宙の生命力」であり、その怒涛の生命エネルギーが僕の心不全を一瞬で解消してしまったってことなのです。

それだけではありません。

大宇宙の生命力は、僕を取り巻く環境まで、その偉大なる力を発揮して、旅館の雰囲気や温泉の質まで一瞬で変えてしまったというわけなのです。

やはり、自分が世界を映し出しているのか…(補足参照のこと)。

~補足~
仙骨整体MRTの創始者、内海康満さんの本に「目で見ているのではなく、自分が世界を映し出している」と書かれてあったと思います。
冷静に考えれば、それは誰でも真理と分かることだと、彼は次のように言います。
「視界が前後、左右、上下に移動するたび、まばたきするたびに、脳は目から入ってくる膨大な情報を一瞬で処理しなければならない。そんな効率の悪いことをしていたら、しょっちゅう映像が乱れてしまうはずだ。ましてや、脳のスペックは人それぞれ違うんだ。それでは一人一人異なった世界を見ていることになり、人類共通の認識を持つことなんて不可能だろう。しかし、実際は、誰が見ても同じものは同じように見える。ということは、寝ていようが起きていようが、常に自分が世界を映し出し続けてるから、閉じた目をパッと開けても映像が乱れることがないんだ。つまり、同じものが同じように見えるよう、神様から一人一人に同じソフトウェアをプレゼントされているということだ」と…。

国生みの始まりの地で氣づいた大谷翔平が強運なワケ

じゃあ、そのスピン力を生み出す源泉はどこにあるのだろうか?

ふと、そう思ったとき「国生みの始まりの地にヒントあり」というインスピレーションが…。

なるほど、日本は、日(霊)の本の国(「霊」も「ひ」と読みます。霊的太陽のことですね。この「霊」のエネルギーが止まって、「人」の最終形態である「霊止(ひと)」となるわけです)。

その国生みの始まりの地に、大宇宙の中心にある霊的太陽につながるゲート(大宇宙のスピン力を生み出している源泉)があって、そこから日の本の国がだんだんと形成されていったイメージが浮かびます。

修験道の始まりの地の次は、両面宿儺信仰始まりの地。その次は、国生みの始まりの地とは…。

やはり、始まりの地がキーワードのようです。

日本神話の「古事記」によれば、イザナギとイザナミが最初に生んだ国は淡路島です。

では、淡路島のどこに、日のエネルギーが溢れ出す源泉があるのでしょうか…?

その時、「洲本」という地名が思い浮かびました。

なるほど、「州本」とは「国の本」という意味だから、そこに、日のエネルギーが溢れ出す源泉があるに違いない。そう感じて、さっそく調べてみると…。

なんと、あの高田屋嘉兵衛の出生地が洲本でした。

高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎をして「人の偉さは測りにくいものですが、その尺度を英知と良心ということにしましょうか。では、江戸時代を通じてだれがいちばん偉かったでしょうか。私は高田屋嘉兵衛だろうと思います。それも二番目が思いつかないくらいに偉い人だと思っています。世界のどんな舞台でも通用できる人ですね」と言わしめた偉人、まさに、日の本のエネルギーを体現した人物です(司馬遼太郎公開講演 1985年5月11日洲本市民会館より抜粋)。

両面宿儺が飛騨の開拓者なら、高田嘉兵衛は北方の開拓者。幕府の要請を受けて、択捉島と国後島の安全な航路を発見したり、17箇所もの新たな漁場を開くなど、北方の開拓者として偉大な功績を残した人、さらに、日本とロシアの戦争を食い止めた人でもあります。

なるほど、霊的太陽と一体となった人には、開拓者精神が宿るってことなのでしょう(そういえば、二刀流の大谷翔平も「誰もやったことのないことに挑戦したい」と…。彼も開拓者精神の持ち主だから、めちゃくちゃ運がいいのです)。

オマケに、「日の本 嘉兵衛餅」という洲本の銘菓まで発見しました(「嘉兵衛餅」だけでいいのに、わざわざ、ここが「日の本」だとしっかりアピールまでしてくれてます!笑)。

その洲本に、日本で一番最初に出来た山と伝えられる先山(せんざん)を見つけたのです(国生みの始まりにして、山の始まりの地でもあるとは…)。

その頂上には「先山千光寺」があり、「先山千光寺」の三重の塔は、あの高田屋嘉兵衛が修築したと…(飛騨の「袈裟山千光寺」の次が、淡路島の「先山千光寺」なんて不思議です 笑)。

先山千光寺のホームページには、次のような説明文が書かれていました。

先山は、天地開闢のはじめ、イザナギ、イザナミの二柱の大神が大八洲をお創りになられた時に、日本で一番最初に創られた山であると伝わることから「先山」と呼ばれ、日本最初峰と称されることもある「国生み神話」ゆかりの地です。境内には、イザナギとイザナミの二柱をお祀りする二柱神社や、天照大神を祀る岩戸神社があります。

(引用はここまで)

なるほど、風水では、地球の強いエネルギーが押し上げて出来た主要な山を「祖山(そざん)」と呼び、そこから流れ出したエネルギーが作り出す山脈や起伏の流れを「龍脈」と呼びますが、まさに、強い日のエネルギーが押し上げて出来た山、しかも、日本で一番最初に出来た山が、先山山地の最高峰にして、淡路富士とも呼ばれる先山というわけです。

日のエネルギーが溢れ出す源泉があるのは、ここで間違いない。

そう確信した僕は、さっそく淡路島に向かったのです。

日のエネルギーの象徴、先山千光寺にあるアマテラスを祀る岩戸神社へと…。

岩戸神社鳥居

カラダの奥にある宇宙という実在につながる扉

奇しくも、岩戸神社に参拝した日は、令和5年6月7日でした(「日月神示」では、この「567」を「ミロク」と読ませています)。

峻厳な雰囲気の岩戸神社の前で、たたずんでいると…

突然、僕のカラダは消え失せ、天の高みへと引き上げられていく感覚に襲われました(その時、同行者は足がガクガクして、後ろに倒れそうになったと言います。それほど強大なエネルギーの柱が、その場に立ち上がったのです)。

と同時に、そのエネルギーは、僕のお腹あたりの一点から、天地を突き抜けていったことを、明確に意識化できたのです。

その瞬間、「大宇宙のスピン力は聖なる中心から生じる」というインスピレーションが…。

なるほど、この一点のことを言っているのか…。

僕は、聖なる中心と聞いて、肥田式強健術(肥田春充オリジナルの氣功法)の創始者であり、思想家、哲学者でもあった肥田春充(ひだはるみち)が提唱した「正中心」という言葉を思い出しました(後に、春充は「聖中心」と表記を改めます)。

春充いわく「正中心とは、身体の物理的中心。幅も厚さも長さも無い、ただ一だけがある一点」と。そして、自身が正中心を体得した時の体験を、次のように語っています。

「ドカッー!?突如!!いまだ経験せざる所の、強大恐るべき力が、腰と腹の中心からほとばしりでた」

「それは床を突き通して、地中に入り、地球の中心を貫いて、ストーッ。無限の宇宙を無限に突き抜けて行った。オオ、無限の力だ。無限の力!無限の力!オオ無限の力だ。身も心も震蕩(しんとう)する絶大の力、光明の揺らめきだ。生命の躍動だ。これこそは真に『活ける命の泉』だ。無限の力と共に、無限の歓喜は私の中心から全身にみなぎった。しかも何とドッシリと落ち着いた喜びである事よ。泰山の重さである。宇宙の静けさである。そうして身も心も、聖愛と生命の霧に、包まれているかの様。またちょうど彼の燃え立つオリオンの大星雲中に座するかのようでもある」

この時、春充は「床板を足型に踏み抜いた。2回、3回、何の抵抗もなく床板は踏み抜かれた」とも言っています。それほど強大な力が春充の全身にみなぎったわけです。

また、春充は「人の最も正しい姿勢こそが、神を見出す」と断言し、「禅の悟りも同じものだ」と、次のように語っています。

「人体の、物理的中心を鍛えること、そこに、精神修養の妙諦が潜んでいる。正確な正中心を、得ることによって、精神状態は、機械の如くに、支配せらるるものである。若しそれ、ピシャァッと、強大な中心力が生ずると、精神の中心は、自ずから下って、其の一点に集中し、一切の思念観想は、機械の運転が中止したように、ピタリと停止されてしまう。考えようとしても、考えることは許されない。思念しないのではない。思念することが出来なくなるのだ。明朗なる無念無想の状態は、自ずから現出される」

この体験があって以降、春充は「正中心」から「聖中心」へと表記を改めました(後に、五百年に一人出るかどうかの傑僧と言われた飯田トウ隠老師も「これこそ本当の体育禅であり、動的禅である」と、春充が得た聖中心が禅の悟りと同じものであることを認めています)。

私たちは、カラダを通じて神を見出すことができるのです(「聖中心」=「神につながるゲート」です)。

舞踊芸術家の千賀一生さんも、「ガイアの法則[Ⅱ]中枢日本人は[アメノウズメ]の体現者となる(ヒカルランド発行)」という本で、カラダの重要性について次のように語っています。

今のあなた方は平和というものを理性で達成しようとしている。それは不可能だ。あなた方は人間の本質を忘れ、人間の本質能力を忘れている。その実現のためには、今は眠ったままになっている人類のもう一つの、肉体という存在の開花が必要なのだ。その開花は、人間をまるごと変え、存在ごと存在と共鳴できる次元へと至らせるのだ。(中略)あなた方の多くは、肉体が外側にあり、内なるものはココロだと思っている。しかし、あなた方も、生命は、神経系の発展から結果的に脳を生み出したことを知っているはずだ。あなた方が心としてとらえる思考の力は、生命進化の最後に生じたものだ。生命の基礎は、むしろ体にある。その奥にこそ、宇宙という実在につながる扉があるのだ。

(引用はここまで)

なるほど、この「カラダの奥にある宇宙という実在につながる扉」こそ、「聖中心」のことなのです。

ちなみに、ヌーソロジーでは「聖中心」のことを「神」と定義しています(ヌーソロジーとは、半田広宣さんが提唱する宇宙論・思想体系のこと。冥王星のオコツトという存在からのチャネリング情報をもとに、物質と精神の関係を空間という視点から接合しようとする具体的なイデア論です)。ヌーソロジーにおける重心(=聖中心)とは、すべての重心であり、無形世界と有形世界のつなぎ目でもあり、さらにそれは人間のカラダでもあると…(ヌーソロジーの入門書として、川瀬統心さんの「新説・精神世界史講座 ワンネスは2つある」という本がおススメです)。

つまり、全次元がカラダに重なっていて、カラダは単なる3次元物質ではないというのがオコツト情報の肝であり、誤解を恐れずに言えば、カラダを忘れたスピリチュアルは、本質からズレてるってことなのです。

岩戸神社

海の水が全部無くなったら空(そら)も無くなる?!~

さて、話を戻します!

この時、僕のカラダにも春充が体験したような凄まじい力が突き抜けていったのです(慢性心不全リスク検査の数値も、この体験があってから、380から48の正常値へと激減したのです。担当医も「血液検査のすべての数値がパーフェクトで素晴らしい」と大絶賛でした 笑)。

そのことは、十数年前のある出来事を思い起こさせました。

僕が国家風水師の白峰先生と(補足参照のこと)、1年365日、ほぼ毎日飲み歩き修行に明け暮れ、2日酔いならぬ365日酔いだった頃のことです(実は、この飲み歩き修行には、深い意味があったのです 笑)。

~補足~
以前、白峰先生は「海の水が全部無くなったら、空も無くなる」と、ブッ飛んだことを言われたことがあります(笑)。「フラットアース説(地球平面説)」がネットに飛び交うようになった今、改めて、このことをもう少し詳しく説明しますと…。実は、地上世界の裏側に、上からアガルタ、テロス、シャンバラの三層構造になっている地底世界があります。そのシャンバラとテロスの中間に宇宙空間があって、それが、地表の上空にあるドーム状のスクリーンに映し出され、宇宙が外側にあるように見えていると、白峰先生は言うのです。つまり、私たちがふだん見ている太陽や月や星々は、ホログラムなんだと…(汗)。我が太極拳の老師も「空を見ていると、エネルギーが自分に返ってくる」と言われたことがあり、それは真実だと僕自身は感じていますが、信じるか信じないかはあなた次第です(笑)。また、地底世界や「フラットアース説」の詳細については、「anemone11月号」に、白峰(中今悠天)先生の対談特集が掲載されていますので、ぜひご覧ください!

その日は3軒目くらいに、懐メロをリクエストすると、その曲が映像(久米宏と黒柳徹子が司会をしていた「ザ・ベストテン」の映像です 笑)とともに楽しめる、新宿3丁目の居酒屋で飲んでいました。

たしか、京都から移動しての飲み歩きで、体力的にも、精神的にも、僕は限界に達しつつありました。

そんな今にも幽体離脱してしまいそうな時のことです!笑

白峰先生 「おい、ありの!ライター貸してくれ!」

ありの 「はい、どうぞ!」

白峰先生 「なっ、なんだチミは?(志村けんの変なおじさんのモノマネで 笑)」

なんと、僕が白峰先生に差し出したものはライターではなく、ボールペンだったのです!汗

つまり、ライターとボールペンの区別もつかないほど、僕のアタマはまったく働いていなかったわけです。

その時です!

「きぇぇーい」と、白峰先生がとてつもなくデカい声で一喝!笑

その大音響が居酒屋中に響き渡り、空間全部が大震動したかのように感じ、周りのお客さんの動きがピタッとフリーズした瞬間、なんと、自分が消えていました。

と同時に、とてつもないエネルギーがカラダの中心からほとばしり出て、疲労マックス状態が一瞬で吹き飛んでしまったのです!!

もちろん、その日は朝まで大いに盛り上がり、飲みまくり、はしゃぎまくったことは言うまでもありません(笑)。

しかも、このスーパーマリオの無敵状態は、その後もしばらく続き、その間の僕は「軽自動車ならぶつかってきても跳ね返せる」と豪語していました。

恥ずかしながら、微塵の疑いもなく、本氣でそう思っていたのです(笑)。

とにかく、それほどの高エネルギー状態が続いていたってことです(ちなみに、この体験後、僕は白峰先生から弘観道の印可状を頂きました 笑)。

印可状に書かれた「金鵄(きんし)玉条(ぎょくじょう)」のマル秘の意味については、↓のブログをご覧ください!
https://ameblo.jp/goji-miiko/entry-12207734399.html

すべての悩みや苦しみの原因は、単なるエネルギー不足に過ぎない

どうして僕はこんなにも元氣になってしまったのか?笑

それは…

自分のイノチの本体(霊的太陽)に触れることができたから。

予想外の白峰先生の一喝に、僕のカラダとココロはビックリして、地球の中心に脱落してしまったのです(笑)。

そのため、僕のカラダとココロにあった緊張もすべて脱落して、期せずして、聖なる中心につながってしまったというわけです。

それは、大いなるイノチの源泉につながった悦びであり、いまだかつて経験したことのないような、至福エネルギーのかけ流し状態…。

そういえば、「すべての悩みや苦しみの原因は、単なるエネルギー不足に過ぎない」が、老師の口癖でした。

たとえば、悩みのエネルギー値が10として、自分のエネルギー値が1ならば、その悩みは生きるか死ぬかの大問題となるでしょう。でも、自分のエネルギー値が100になれば、その悩みはどうってことなくなって、逆に、その悩みのドラマを楽しめるようになるわけです。

その老師の言葉が真実であることを、この時の僕は、ありありと実感できたのです。

大いなるイノチの源泉(=聖なる中心)につながって、全身(=全心)にエネルギーが満ち満ちてくると、理由もなく毎日が楽しくなってくるんです(このあたりの心境を、宗忠公は「あら嬉し かかる嬉しき世にいでて くるしむ人ぞ 憐れなりける」と歌に詠んだのでしょう)。

さて、話を戻します!

先山千光寺での不思議現象は、強大なエネルギーの柱が立ち上がっただけではありませんでした。

な、なんと、鹿の群れを率いる、一頭の神々しい猪と出会ったのです!笑 実は、先山千光寺は、次のようなエピソードが伝わっています。

延喜元年(901)播磨の国の猟師忠太(藤原豊広)が播州上野の山中で為篠王(イザサオウ)という大きな猪を射た。ところが、猪は傷つきながらも海を渡り、淡路島の山奥へ逃げ込んだ。忠太が跡を追うと、先山の大杉の洞中に、胸に矢の刺さった千手観音像があった。
驚いた忠太は頭を剃り、寂忍(じゃくにん)と名を改めて仏門に入り、ここに観音像を祀る寺を建てた。
(先山・千光寺略縁起より)

なるほど、この鹿の群れは、猪に化身した千手観音様からのメッセージ…。

中国には、虎,鹿,熊,猿,鳥の5種類の動物の動きからヒントを得た「五禽戯(ごきんぎ)」という氣功法があります。

鹿は精力絶倫な動物とされ、漢方薬では鹿の角の粉末が、精力剤として有名ですが、それは、鹿のしっぽに秘密があったことを思い出したのです(しっぽを頻繁に動かすことで、自家発電された大量のエネルギーが、物質化して鹿の角となると考えられているためです。ちなみに、人が爪を切るようなもので、角を切られても鹿さんに痛みはないそうなので、安心してください 笑)。

人の場合、しっぽは尾骨にあたります。

そうか、しっぽ(尾骨と仙骨)に包まれるように、聖なる中心はあるんだ!

つまり、聖なる中心はしっぽを振る動きの起点にあり、しっぽを振れば、聖なる中心が活性化されるってことなのです。

その一点から、大宇宙のスピン力は生じ、大宇宙の中心軸も立ち上がる…。

なるほど、鹿さんはしっぽを頻繁に動かすことで、聖なる中心を活性化させ、増し増しになった生命エネルギーを得ていたわけです(聖なる中心が活性化するほど、無尽蔵の生命エネルギーの源泉、すなわち、聖なる中心とつながるパイプも太くなるとお考えください)。

先山千光寺

悟りとしっぽの不思議な関係

そういえば、たまたま読んだ「心と体を変える底力は腸にある 腸脳力(長沼敬憲著 BABジャパン発行)」という本に、次のようなことが書かれていたことを思い出しました。以下、該当部分を引用します。

実際にイメージしてみればわかりますが、私たちは「胸」や「腹(腸)」で感じることはあ っても、これらの部位で悩んだりすることはありません。悩む主体はあくまでも「脳」にあります。体の感覚としてとらえれば自明のことであるはずですが、人は数億年にわたって 脳を特異に発達させてきた結果、どうしても「頭で考える」ことに囚われ、それが自分そのものであると思い込んでしまう傾向にあります。仏教の世界では、こうした脳に意識が偏った状態を「無明」と表現していますが、これは要するに「体を持って生きていることを忘れてしまった」「体のなかから脳だけが分離されてしまった」状態であると言うことができます。体 は自然の一部であるわけですから、体から脳が分離されているということは、脳だけがこの世界から孤立していることを意味します。こうして生きているのに、生きている ことが実感 できない。もしそうした感覚があるのだとしたら、それは「脳」という檻の中 にあなたの意識が閉じ込められてしまっているからでしょう.この無明から抜け出すには、脳にばかり意識が偏った「頭でっかち」の状態に気づき、「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる」必要があるでしょう。それが座禅することの意味であり、この中心を重ね合わせる練習を繰り返す中で「直感の回路とつながる=悟る」という体験が得られることになります。

(引用はここまで)

「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる練習を繰り返す中で『直感の回路とつながる=悟る』という体験が得られる」と書かれていますが、長沼敬憲さんも「その肉体の中心はしっぽにある」と、この本で述べているのです。

「悟り」は「差取り」だと、よく言われます。

たしかに、豊かな人と貧しい人、美しい人と醜い人、大卒と中卒、背が高い人と低い人、太った人とスリムな人、人氣者と嫌われ者、健康な人と病弱な人など、私たちはあらゆる物事の間に差を作っています。その差が、悩みと苦しみの原因なのだから、その差を取ることが悟りだというわけです(たとえば、国と国の間に国境という境界線を作り出してしまうから、境界線をめぐって、政治、経済、軍事などの争いが生まれます。自分と他人という境界線を作り出してしまうから、そこに人間関係の葛藤も生まれます。差を作ることは、境界線を作ることなのです。)。

でも、いざ差取りを実践しようにも、差に溢れた世界、いや、あらゆる物事が差で成り立っている世界で、そんなことができるはずがないのです(汗)。

そうではなく、悟りとは、聖なる中心との差(ズレ)が取れたときに、自ずから実現するものだった…。

その一点を体得できたとき、思考は勝手に消えています。

そのとき、ジャッジする(差を作り出す)自分も消えているのです(まさに、白峰先生の一喝体験がそうでした)。

悟りとは、聖なる中心を体得した結果、引き起こされる精神的・身体的変化にすぎなかったなんて…(悟りを求めるほど、悟りから遠ざかると言われるのも、そのためかもしれませんね。以降、「聖なる中心」のことを「悟りゲート」と表記します)。

だから、坐禅もカラダを重視します。

坐禅という型の目的も、この一点の体得にあるのですから…(その一点から、上下に引き裂かれるように、天地を貫くエネルギーが立ち上がります。それが中心軸です。坐禅で、背筋をまっすぐにすることが重視されるのも、その中心軸上の一点に「悟りゲート」が存在するからです。「悟りゲート」の体得には、中心軸の貫通は不可欠なのです)。

ならば、悟りという結果をもたらす原因、すなわち、カラダの中にある「悟りゲート(=聖なる中心)」にこそ、意識を向けるべきでしょう。

でも、その目に見えない一点は、言葉で伝えようにも伝える術がないのです。熱い感じ、寒い感じ、甘い感じ、辛い感じ…。その感じをいくら言葉で説明したって、なかなか伝わらないのと同じです。もし、その感じを伝えたいなら、暑い夏、寒い冬、甘い佐藤、辛い唐辛子を、体験させたらいいのです。

だから、坐禅という型で、その一点を体験させようとしたわけですね(ただし、その外側だけをどんなに正確に真似てもダメなのです。その型の奥、すなわち、カラダの内側を真似ることができなければ…。詳細は後述します)。

さて、鹿の群れを率いる一頭の神々しい猪に出会ったと書きましたが、実は、その猪に化身した千手観音さまから、まさかのテレパシー通信が…(笑)。

突然、稲妻が突き抜けたかのごとく、「悟りゲート」を開くための、まったく新しい氣功法の全容が、一瞬のうちに伝授され、理解されてしまったのです。

このことについて書こうと思えば、分厚い本の5、6冊は軽く書けてしまうくらい。そんな大容量の情報が、僕のアタマに一括ダウンロードされたようなのです。にもかかわらず、それは、老若男女問わず、誰でも簡単にできる、とてもシンプルな氣功法でした。

でも、その型の奥には、無限の情報が込められているというか…。

前述の千賀さんの本には、次のような文章が書かれています。

「象徴伝達の世界においては、複雑化へと向かう言語伝達とはまったく対照的に、たった一つからすべてを伝達することになる。一を極めることによって全体性を学ぶ。これは、あなた方の閉ざされた超感覚を開く道なのだ」

「あなた方の社会の歪みを、根本から是正するための最大の近道は、象徴伝達の文化を復活させることだ。これこそが、遠いようで、最も近い調和社会への近道なのだ。あなた方日本人は、やがて実際に象徴伝達の文化を復活させることになるだろう。そしてその復活が、人々の新たな能力を開かせ、新文明を誕生させる具体的原動力となるだろう」

(引用はここまで)

言語伝達とは、バラバラの個人が存在するという人間観に基づいています。だから、どんなに論理をたくましくしようが、社会制度を変革しようが、世界から争いが消えることはなかったのです。

そのバラバラな人間観自体に、争いの原因があるのですから…(自分と他人の間に境界線を作り出してしまうからですね。それ以前に、言語自体が、善悪、美醜、長短、大小などの境界線を作り出すことで成り立っているのです。「分かる」とは「分ける」ことなのです)。

一方、たったひとつからすべてを伝達する象徴伝達とは、各自が、イノチの根っこにある「One=All(ワンネス)」につながるということ。すなわち、「悟りゲート」につながるということです。その「One=All(ワンネス)」を媒介とした伝達方法を、象徴伝達と言っているのです。「One=All(ワンネス)」ならば、境界線を作り出すことがないから、調和社会への最大の近道ともなるわけですね。

神とは圧力なり!

令和5年6月7日のミロクの日…。

この日に、「One=All(ワンネス)」の大いなるイノチの源泉と私たちを結ぶ型(象徴)として、ミロクの世(世界平和)の礎として、この氣功法が授けられたことも理解しました(以降、この氣功法のことを「(らく)(ぜん)ヨガ」と表記します。補足参照のこと)。

~補足~
「ヨガ」とは、サンスクリット語で「つながり」を意味します。また、「禅」という漢字は、「単」に「ネ」で成り立っています。「ネ」は礼拝している姿を表しています。つまり、単純なものに礼拝する姿を表しているのです。もちろん、単純なものとは「悟りゲート」のことです。その大いなるイノチの悦びのエネルギーにつながると、無条件に、ありがたく、面白く、楽しくなってきます。そして、ますますイノチが光り輝くようになるから、「楽禅ヨガ」と名付けたのです。

千賀さんも「象徴伝達は、一つを深めることに基づく。その体得には、同じ一つの型に無限にふれ、無限に体感する必要がある」と言われているように、このシンプルな「楽禅ヨガ」の型に、無限に触れ、無限に体感する必要があるのです。

というのも、「悟りゲート」こそ、無限につながるゲートでもあるからです(詳細は後述します)。

さっそく、「楽禅ヨガ」を実践してみると…

まるで、生き物のごとく、龍のごとく、強大なエネルギーが僕のカラダの中を渦巻き始めたではないですか!

前述の宗忠は「神は生き物である」と言いましたが、本当に生き物であるかのようにうごめくリアルな神のエネルギーを体験できるのです。

そのリアルな神のエネルギーは、球状にどんどん張り出しながら、かつ、どんどん凝結していきます。

まるで、ドラゴンボール…(まさに、生ける龍のように渦巻くエネルギーの球だから、ドラゴンボールです 笑)。

そういえば、20世紀最大の神秘家の1人、ダイアン・フォーチュン女史の名著「神秘のカバラー(国書刊行会発行)」の中に、彼女がある偉大な人物に言われたという秘密の言葉が書かれています。

それは…

「もし神とは何かを知りたいとすれば、ひと言で語ることができる。神とは圧力なのだ」

という言葉です。

何が言いたいのかというと…

このドラゴンボールこそ、神の圧力の正体だってことです。

先ほど、「しっぽ(尾骨と仙骨)に包まれるように、聖なる中心はある」と書きましたが、↓の図が、人間のしっぽ(尾骨と仙骨)部分です(笑)。

ブログ「野球×理学療法士(https://sakuraiku.hatenablog.com/entry/2021/03/15/060000) より引用

このしっぽ部分に包み込まれるような大きさの、ドラゴンボールをイメージしてみてください(その中心に「悟りゲート」はあります)。

ドラゴンボールの内側では、膨張する力と凝結する力が拮抗しながら、ものすごい圧力を生み出しています。ドラゴンボールの中には、神なるエネルギーがはち切れんばかりに詰まっているのです(ドラゴンボールのエネルギー密度が高まれば高まるほど、その聖なる中心もどんどん活性化していきます。そこに「悟りゲート」が出現するわけです。「悟りゲートが開く」と「悟りゲートが出現する」は、同じ意味だとお考えください)。

そういえば、神主が神社で唱える祝詞の中に「高天原に神づまります」という言葉がありますが、それは、この状態を表現したものだったんですね…(高天原とは腹、すなわち、氣海丹田のことです)。

そんな神の凄まじい圧力を、「楽禅ヨガ」を実践するだけで、誰でも簡単に体験することができるってことです(補足参照のこと)!

「悟りとは 悟らで悟る 悟りなり 悟る悟りは 夢の悟りぞ(本物の悟りとは、悟ったなどと思わないで悟るものであり、 悟ったなどと思っているような悟りは、偽物の悟りだぞ…という意味)」という古歌がありますが、この神の圧力を失わないとき、悟ったなどと思わなくとも、そこに悟りはあるものなのです。

~補足~
白峰先生いわく「シャンバラは聖なるオーブの塊、エネルギーのプラズマ球で、その中心にセントラルサンはある。それを、神道では『中今(なかいま)』と言う。『中今』とは、過去・現在・未来を超越した永遠の時の流れの中心点のことだ」と…。つまり、「ドラゴンボール」=「シャンバラ(エネルギーのプラズマ球)」で、その中心に「悟りゲート」=「セントラルサン」があると言えるでしょう。やはり、宇宙はカラダの中にあるのです…。

秘伝書に予言されていた「楽禅ヨガ」

さて、「楽禅ヨガ」の説明に入る前に、皆さんにお伝えしなければならないことがあります。

実は、老師が呉式太極拳の全伝をマスターしたとき、秘伝の巻物を授けられたそうなのです。

その巻物には、いったいどんな秘伝が書かれていたのでしょうか?

老師いわく、巻物には「『坐』という一文字だけが書かれてあった」と…(笑)。

その話を聞いて以来、この「坐」という一文字が、僕のアタマから離れることはありませんでした。たしかに、立っているけど、坐っているような感覚(丹田の浮遊感覚)というのは、氣功の極意なのです。たとえるなら、上半身が人間で、下半身が馬のケンタウルスになったみたいな身体感覚です(笑)。これは、太極拳や合氣道の達人の人間離れした安定感の秘密でもあるのです。

しかし、そのことだけを伝えるために、わざわざ「坐」という一文字を、書き残したのでしょうか…。

僕には、もっと深いメッセージが隠されているように感じていたのです。

ところが、先山千光寺で「楽禅ヨガ」の全容がダウンロードされたとき、「坐」の一文字で伝えたかったことは、まさに、コレだったことを理解しました。

つまり、「坐」の一文字は、時空を超えて僕に語られたメッセージだったと…。

その一文字には、「楽禅ヨガ」の型のすべてが秘められていたのです(「楽禅ヨガ」は、準備功、基本功、応用功の3つの氣功法で構成されています。ここでは、基本功のやり方を説明します)。

楽禅ヨガ(基本功) 横から

「楽禅ヨガ」の心得 七ヶ条

第一条
しっかり座り込んで、その座り込む力で腰を立てる(背筋をまっすぐに伸ばす)。

第二条
背伸びするように、〇〇下を伸ばす(◯◯部分は後述します)。昔からの教えに「お尻の下に紙一枚を入れよ」とありますが、イスから立ち上がろうとする直前の姿勢で(そのとき、お尻の下に紙一枚入れた感じになります)、背伸びするように〇〇下を伸ばすのです。

第三条
後ろに組んだ両手の甲に、後頭部を軽く押し当てる。

第四条
アタマのてっぺんから糸で吊り上げられているイメージを持つ。かつ、その糸にぶら下がるイメージで脱力していく。

第五条
両肩甲骨の間をしっかり広げる。

第六条
そのときのお腹の固さ(神の圧力)をチェックする。命門(ヘソの真裏にあるツボ)が食い込むような感覚も生じるはずです。

第七条
各自、内観力(補足参照のこと)を深めながら、日々、神の圧力がより高まるように工夫する(象徴伝達は、一つを深めることに基づき、その体得には、同じ一つの型に無限にふれ、無限に体感する必要があるからです)。

~補足~
僕は、老師から内観の大切さを教わりました。内観には色々な意味がありますが、老師の言う内観とは、カラダの内側に意識を向けることです。僕は20年以上(今もなお)、この内観力を高め続けています。僕が合氣道の不思議な技をたった一年で使えるようになったのも、内観力のおかげだと感じています。その証拠に、三十年以上も稽古に励んでいた兄弟子は、合氣の極意をつかめないままだったのです。内観力が高まってくると第六感が覚醒し始めます。すると、相手のパンチが来る前に、相手の意識(氣)が先に向かってくるのも、分かるようになるんです。その相手の意識(氣)に技をかけるのが、本当の合氣です。ということは、向かってくる相手の氣が弱ければ、鮮やかに技もかかりにくくわけです。だから、合氣道開祖の植芝盛平は、わざと相手を挑発することを言ったりしたのです(笑)。あえて、「第二条 背伸びするように、◯◯下を伸ばす」と、○○部分を伏字にしましたが、〇〇部分にどんな言葉が入るのか、ぜひ、「楽禅ヨガ」の型に教えてもらってみてください(笑)。正解した方は、相当な内観力の持ち主です(◯◯部分は後述します)。

「楽禅ヨガ」の型の中には、無限の情報が込められているので、到底、このホームページには書ききれません(笑)。好奇心を刺激された方は、ぜひ、僕のセミナーに参加してみてください(「悟りゲート」体得の前提条件である中心軸の貫通が、このセミナーで達成されます。とは言え、毎月10名ちょっとしか指導できないので申し訳ないです。皆さんがこれまでの人生で溜め込んできた氣の詰まりを根こそぎ解消し、中心軸を一瞬で貫通させてしまう「中心軸氣功整体」に、尋常ならざるエネルギーを必要とするためです)。

「童歌『かごめかごめ』に秘められた暗号(前編)」のページに進む